東日本大震災の津波遺構を訪ねて

15年も経過し東日本大震災の記憶は自分の中で風化していく。津波による被災の記憶を呼び戻し、犠牲者を追悼するために津波遺構を巡りたいと以前から考えていた。運転免許を返上する前に実現したいと思って、津波被災地を訪ねた。

1日目:

仙台空港でレンタカーを借りて、震災遺構には寄らずに、休暇村気仙沼大島まで行く。鳴瀬奥松島から三陸道に乗ると、15時半頃到着の予定で一般道を走る。しかし、利府町あたりから渋滞になる。おかしいなと思いながら進むと、交通事故があり片側交互通行になっていた。三陸道に入るとあとは順調で、浦島大島で三陸道を降りて16時半頃休暇村気仙沼大島に到着した。今日はここまでで、ゆっくりする。

2日目:

9時頃出て、気仙沼中央から三陸道に入り、釜石北で降りて三陸鉄道鵜住居(うのすまい)駅に行く。駅前に「いのちをつなぐ未来館」、「釜石祈りのパーク」、「鵜の郷交流館」が一体となった「うのすまい・トモス」がある。

「鵜の郷交流館」は地元の特産品などのお店になっているがガラガラである。店員さんに聞くと、昨日まではお祭りで人も多かったが、今日は反動で空いているとのことだった。震災の復旧工事は終わったと思うが、ひとが戻って来ない、戻ってきてほしいと言っていた。

「いのちをつなぐ未来館」では、「東日本大震災と釜石」、「鵜住居地区防災センターの出来事」、「釜石の子どもたち」の3つのテーマで震災を紹介している。入るとすぐ、「鵜住居小学校」と「釜石東中学校」の生徒たちが高台に向けて避難した様子を語る当時の生徒の映像が流れており、釘付けになる。中学生が小学生をかばいながら一緒に避難したという。

「鵜住居地区防災センター」は、津波の避難場所としては指定されていなかったが、ふだん避難訓練が行われていた。そのため196人が避難してきており、津波が建物の2階天井に達したため162人が亡くなったと紹介されていた。「鵜住居地区防災センター」の跡地は「釜石祈りのパーク」として整備されており犠牲になった方たちの芳名板も設置されている。ここでの津波の高さは11メートルだったという。

「釜石鵜住居復興スタジアム」は震災前に「鵜住居小学校」と「釜石東中学校」があった場所で海抜は2メートル。地震発生後にすぐ小中学生570名は高台への避難を開始したという。津波は校舎の3階の高さまで到達したので、そのままとどまっていたら大惨事であったろう。避難を始めて最初にたどり着いた「ございしょの里」では、付近の住民がここでは危険だと先生たちに助言し、さらに高いところを目指して移動した。中学生が点呼をとろうとしたところ、先生たちが点呼はいいから早く逃げろと言ったそうだ。2番目の避難場所から迫り来る津波が見え、あとは全力疾走で標高44メートルの丘まで駆け上がったという。ちょっとした判断で運命が分かれていくことがわかった。

三陸鉄道鵜住居駅を見にいくと、ちょうど列車が行き違うところであった。重い旅の中で、ほっとするようなひとときである。しかし、どちらの列車にもこの駅での乗降客はいなかった。

宮古へ向かう途中で、大槌町の伝承館・文化交流センター「おしゃっち」に寄る。大槌町の震災の模様と復興過程をまとめた映像を見る。南三陸鉄道を使いながら震災遺構を巡っているという母娘と一緒になった。時間は経過しても、たくさんの遺構をたどる人たちと出会った。

宮古を過ぎて田老まで行き、巨大な防潮堤を見た。もともとは、明治と昭和の三陸地震津波で壊滅的な被害を受けたことから、防潮堤建設に着手した。1979年までに巨大な二重防潮堤が完成して、「万里の長城」ともよばれていたそうだ。しかし、東日本大震災の巨大津波は、この防潮堤を越えて田老地区に甚大な被害を与えた。

田老観光ホテルは、17メートルを超える津波の被害を受け、2階までは柱だけになってしまった。津波の破壊力の恐ろしさを感じる。

私の友人の開業歯科医は、震災後自分の診療所をしばらく閉めて、往診の歯科治療器具を持って田老に入った。途中の道路の被害も大きく、車で田老に入るのは大変であったと聞いた。緊急対応を要する歯科の患者さんに対応し、歯科治療歴からのご遺体の判別にも当たったらしい。尊敬する友であるが、脳腫瘍が見つかり現在は自分で動くことができない。不条理だといつも思う。

今夜は、陸中宮古の休暇村に宿泊した。

3日目:

9時頃出て、国道45号を南下する。鵜住居を過ぎ、大船渡を通過して、陸前高田へ向かう。

「高田松原津波復興祈念公園」内に、「東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)がある。伝承館は充実しており、東日本大震災の地震と津波そして人々の対応について、広く深く全貌を伝えている。しっかり見ると1日かかる情報量だと感じたが、残念ながらそれはできない。

公園内には「国営追悼・祈念施設」や道の駅が併設されており、「奇跡の一本松」をはじめ5つの震災遺構が点在している。公園内を歩いて、防潮堤に出る。津波が入ってきた広田湾をみる。こんな穏やかな海から津波が襲ってくるとは。

「奇跡の一本松」へ向かうと、津波が遡上した気仙川が見え、被災したユースホステルが残る。対岸に14.2メートルもの津波に襲われて全壊した気仙中学校の遺構が残る。この中学校ではふだんから防災訓練を行っており、震災当時もすぐに避難を開始して生徒と教職員全員が無事だったという。日頃の防災訓練の重要性を伝えている。

南下して気仙沼へ向かい、東日本大震災遺構・伝承館へ行く。震災伝承館に入ると最初に、大型スクリーンで震災当時の映像を見る。それから震災遺構の気仙沼向洋高校の旧校舎に入り見学する。校舎は被災当時の姿で保存されている。あらためて津波の破壊力はすさまじい。4階には「津波到達地点」の表示があり、3階には津波で流された車が建物内に入っている。引き波の通り道となった北校舎と総合実習棟の間には、流されてきたものがたまっている。ここでも高校生たちは機敏に避難して無事だった。

震災伝承館に戻り、3人の被災された方たちの語りを映像とともに見る。どうしてこんなことになるのか。見ている人は皆心を揺さぶられ、涙があふれる。

16時過ぎまで見て、今夜の宿泊の気仙沼大島の休暇村へ。

4日目:

休暇村を出て、気仙沼大島の港に寄る。むかし気仙沼港からフェリーに乗り、大島の港に上がったことがある。NHK朝ドラの「おかえりモネ」の中で、ヒロインが育った気仙沼沖の島とは大島だと思って見ていた。以前は橋がなかったので嵐の夜に船を出すシーンも描かれており、橋の設置が切望されていた。当時、港の左右の岸壁には土産物屋や食堂が並んでいたが津波で一掃されて、今は何も残っていない。震災後、大島と気仙沼市の間には気仙沼大島大橋ができて、行き来が安全に楽になった。

45号を南下し、南三陸町に着く。南三陸町では800名以上の死者・行方不明者が出たという。「東日本大震災伝承館・南三陸311メモリアル」で展示を見る。「防災対策庁舎」で被災した、危機一髪だった町職員の証言が映像とともに流れて、震災の状況が生々しく伝えられる。

外に出ると、川の向こうに南三陸町復興祈念公園が見える。河口も近く、震災遺構の旧「防災対策庁舎」があまりにも近くて意外だった。震災以前の写真を見ると、普通の街並みが広がっていたのに、津波ですっかり変わってしまったことがうかがわれる。

隣接した道の駅「さんさん南三陸」には商店街がある。以前来たときはもっと賑わっていたような気がするが、お店には人が少なく寂しかった。時間が経ったからだろうか。

大川小学校へ向かう。途中の海はきれいで、自然も豊かな地域を走るが、あちこちに津波の影響がうかがわれる。大川小学校では津波により74人の児童と10人の教職員が死亡・行方不明となった。河口から3.7キロメートル内陸に位置することから、津波は到達しないと思われていたという。そのためか地震の避難場所は川の近くであった。しかし、津波は川を遡上し校舎の屋根までの高さとなって襲った。鉄筋コンクリート製の渡り廊下は津波の威力でねじり倒されている。津波の破壊力の強さがうかがわれる。

大川小学校の伝承館は休館だったが、建物の遺構から津波の破壊力が伝わる。裏山へ逃げようと提案した教員が地元の有力者から反対されたとか、裏山へ向かって走った子供たちが教員から制止されたりしたという。見たところ、裏山はすぐ近くで、高さも結構ある。木も多いし、この山に逃げていれば、助かったのではないかと考えてしまう。先入観にとらわれない臨機応変な判断が求められるのだろう。リーダーのちょっとした判断の違いで生死が分かれることがわかる。結果論だけでは済まないように思う。今回見た各学校の避難の明暗の差はあまりにも大きい。胸が痛む。

学校を後にして、仙台空港へ向かった。たくさんのことを学んだが、津波に関しては、ふだんから想定して訓練し、ともかく早く、できるだけ高く、津波の来る方向から遠ざかった人たちが助かったように感じた。15年も経過したのに未だに多くの人が、遺構を訪れ、語り部の話を聞いていることに救いも感じた。

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